EUC-JP" /> 2009年11月の記事 | 巡 礼  〜セルフカタルシス〜

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  • 2014.03.02 Sunday
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(真言と法話)勢至菩薩

 勢至菩薩 (せいしぼさつ)
 真言  オン サン ザン ザンサク ソワカ
 この真言を唱えれば、煩悩が去り、智慧を得て、悟入できる。

 マハースターマプラープタ(Mahasthamaprapta, mahA-sthAma-prApta)。
八大菩薩の一つ。 勢至菩薩 大勢至菩薩とも呼ばれ、衆生の無知を救う仏の智慧を表します。
智慧明瞭・現世安穏、極楽往生 午年生まれ十二支守り本尊

サンスクリット語では「マハースターマプラープタ」は、「偉大な威力を獲得した者」を意味します。
阿弥陀仏(アミターバ)のそばに仕え、その智慧の光でもって、いっさいのものを照らします。
また、名前の通り、威力が強く、足をひと踏みするだけで、三千世界はもとより、大魔王の宮殿さえも
激しく揺るがすといわれています。

梵語を漢訳する大勢至(偉大な勢力)菩薩の意訳で摩訶那鉢(まかなはっ)とも呼ばれており観音菩薩と共に
阿弥陀三尊を形成
します。三尊像の他に絵画で山越阿弥陀図や二五菩薩来迎図などに描かれます。

 
 勢至菩薩は観音菩薩と並んで来迎形式の阿弥陀三尊の脇士として有名ですが、観音のように一尊が独立して
信仰されることはほとんどありませんでした。三尊形式の場合、そのお姿は観音とほぼ同じとされていますが、蓮
華台を持った観音に対し、合掌した姿で表されることが多く、今まさに往生しようとする衆生を極楽浄土に迎えて
くれます。観音の慈悲に対し、勢至菩薩は仏の智慧の光を象徴しておりあまねく一切を照らし出しています。

[お姿]

 冠には水瓶を頂き、化仏を頂いた観音様と識別することが出来ます。水瓶には本尊を供養するための水が
入っているとも、甘露の宝水を貯えているとも言われています。軽い合掌形が一般的。瓔珞(ようらく)、
腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)等の装身具で飾り、条帛を着けるのは観音像と同じ。

[法話]

経典 「観世音菩薩往生浄土本縁経」には、昔、インドに長邦(ちょうな)という僧がいました。長邦には早離(そうり)、速離(そくり)という二人の子があって、母が早くなくなったので継母を迎えました。しかし、飢饉の時代だったので継母は二人の子を父が留守の間に南海の孤島に置き去りにしました。二人の子は、生母の遺言「菩提心をおこしなさい」を想い出し、死後生まれ変わって苦しむ人々を救おうと百の誓願をたてて絶命しました。父の長邦は帰宅後、二人の子を探して孤島に来ましたが、既に白骨の身になっていました。兄の早離は今の観音菩薩、弟の速離は勢至菩薩、長邦は釈迦仏であったということです。

(真言と法話)観音菩薩

 ・聖観音
 ・梵名:アヴァローキテーシュヴァラ   ・真言:オン アロリキヤ ソワカ
 種子サ

仏の慈悲の「非」をもって、現世の生活に悩む人の苦しみを救います。阿弥陀如来の化身と考えられています。頭上には阿弥陀の化仏を付けています。単独像のほかに勢至菩薩と一緒に阿弥陀如来像の脇侍となる場合もあります。


[ルーツ]
 これは文字通り観音の本体です。厳密な意味で言えば、これこそが本来の観音でしょう。聖観音の出自は不明確ですが、流れとしてはゾロアスター教の、世界に遍在する水の女神アナーヒータの要素が含まれているかも知れません。ただしアナーヒータは直接的にはインドのサラスヴァティ、日本の弁天・市杵嶋姫命につながります。またこの女神は西に伝わると、 イナンナ(イシュタル)からアフロディーテ(ヴィーナス)にもつながります。

 実際らは、聖観音の要素にはこのアナーヒータの要素とインドの最高神のひとり、シヴァの要素が混在しているようです。アヴァローキテシュヴァラというのは元々シヴァの別名のひとつです。アーリアというのは「高貴な」という意味。それ故、彼らは自分達の民族をアーリアと自称したのです。
 
 元々シヴァというのは両性具有的な部分があり、パールヴァティと合体したアルダーナーリーシュヴァラ像などというのも作られています。パールヴァティ(シャクティ)はシヴァの配偶神であるとともにシヴァそのものの裏の姿でもあります。恐らく観音の本体というのは、こういう両性具有的な要素を持つシヴァにアナーヒータの要素が加わったものなのでしょう。


六観音(観音信仰)「仏像イラストはすべて(有)レイランドの著作物です。」

西国や秩父など三十三ヶ寺に於ける本尊は、宗派別に見れば、真言系15ヶ寺・天台9ヶ寺・
単立3ヶ寺などとなっており、六観音信仰が真言宗・天台宗の教義からの信仰である為、両宗
と関連の深い寺院で占められる。

六観音とは浄土信仰と共に中国で生まれたもので大悲観音・大慈観音など六尊を拝んで
輪廻から抜け出す手段とされた。

六観音は、基本形である聖(しょう)観音をはじめ、十一面観音・如意輪(にょいりん)観音・馬頭(ばとう)観音・准胝(じゅんてい)観音・千手観音の6つで、これに不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をくわえて七観音とする。

観音さまというのは日本では恐らく一番信仰を集めている仏でしょう。この仏様は慈悲の心により、救いを求めている人があったらすぐにそこへ行って彼らを救済をすると言われており、如来様ほど恐れ多い存在でもないところから人気を集めたのではないかと思われます。

観音は観世音の略で、また観自在菩薩ともいいます。インドではアバロキテシュバラで意味としては観自在の方が正しく、観世音というのは誤訳だとも言われます。しかし観音という言葉がこれほど定着してしまった以上、それは大変意味のあることだと考えた方がよいでしょう。民衆は意外と真の名に敏感です。

短いお経として有名な般若心経の冒頭は「觀自在菩薩 行深般若波羅蜜多」となっています。あの三蔵法師もインドへの旅の途中繰返し繰返し般若心経を唱えていたといいますが、彼はその中で観音様の名前を何度も何度も呼んでいたことになります。

観音は衆生を救済に顕れる時、多くの姿をとると言われます。(観音経に書かれています。観音経もどこかでその内取り上げることにしましょう)

そういった信仰から成立したもののひとつがいわゆる六観音で、聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音です。(天台宗では准胝の代りに不空羂索を入れます)他に竜頭・滝見・威徳などを入れた三十三観音という数え方もありますが、その中にも子安観音等は入っていませんから観音の姿は全部で幾つくらいあるか見当がつきません。

この33という数字は観音様にとって重要な数字で西国三十三箇所とか京都の三十三間堂というりは、この数字を借りたものです。

その京都の三十三間堂には千手観音が1001体並んでいて壮観というか、いや、圧倒されるような雰囲気が存在しています。千手観音(大悲観音ともいう)の本来の形はその名の通り千本の手と千個の目を持っていて、千人同時に救済する力を持つさとれます。そのくらいパワーのある仏さまだからこそ人口がいかに多くても世の中の大勢の人を助ける事ができるのでしょう。

しかし三十三間堂の場合をはじめ多くの仏像の場合は手は(合掌する2本以外に)40本で、各々の掌に目があるという形です。これは1本の手で同時に25人を救済するというハイパフォーマンスの形式になっています。本当に千本の手が彫られている千手観音としては、奈良の唐招提寺のものなどが知られています。

なお、一般に言われる三十三観音をあげると次のようになります。

楊柳(ようりゅう)・竜頭(りゅうず)・持経・円光・遊戯(ゆげ)・白衣(びゃくえ)・蓮臥(れんが)・滝見・施薬・魚籃(ぎょらん)・徳王・水月・一葉・青頸(しょうきょう)・威徳・延命・衆宝(しゅほう)・岩戸・能静(のうじょう)・阿耨(あのく)・阿麼提(あまだい)・葉衣(ようえ)・瑠璃(=香王)・多羅尊・蛤蜊(はまぐり)・六時・普悲・馬郎婦(めろうふ)・合掌・一如・不二・持蓮・灑水(しゃすい)。

観音様は単独で観音堂の中に祀られる以外にも、阿弥陀如来の左の脇侍として、右の脇侍勢至菩薩とともに阿弥陀三尊の形式で祀られている場合もあります。また最近は背の高さが数十メートルもある巨大仏像としてもよく作られています。巨大仏像は鎌倉の大仏(ビルシャナ仏)や奈良の大仏(阿弥陀如来)などのように純粋に信仰上の理由で作られる場合もあります。

ところで、観音に例えば六観音があり、それは観音様の変化した姿と言われているのですが、これは裏側から見ればいろいろな神様が観音菩薩というところに統合されたものということも言えます。


千手千眼観音
・梵名:サハスラブジャ    ・真言:オン バサラ ダルマ キリク
 種子キリーク
千手観音は千臂千眼観世音、千臂観音、千光観音、千眼千首千舌千足千臂観自在ともいい、正しくは千手千眼観世音菩薩と呼びます。ちなみに千とは無量円満を意味する。全ての生き物と人々を救う事を象徴し「大悲観音」とよばれる。曼陀羅で蓮華部の中で最高の威徳を有する事から「蓮華王」とも呼ばれる。実際、千本の手がある仏像はまれで、だいたいは42本限られ、各手には持物を持つことになっています。また、十一面観音のように頭上に十一の顔があります。眷属として二十八部衆がつきます。六観音の一人です。

十一面観音
・梵名:エーカーダムシャカ  ・真言:オン ロケイジバラ キリク ソワカ
 種子キャ
十一面観音はヒンドゥー教の十一荒神が強化されたものと考えられている。変化観音の中では最も早くからインドで成立しました。頭上に十一の顔があり全ての方向を見つめて人々を救済します。
 普通、前3面は菩薩面(穏やかな顔、慈悲を現す)、左3面は分怒面(悪人を戒める)、右3面は狗牙上出面(優しい顔、人々を励ます)、後一面は大笑面(大笑いしている顔、悪行を笑い飛ばす)」、頂上は仏面(仏道に入った人に教えを説く)。各面は阿弥陀仏の宝冠を頂いている。

 このルーツははっきりしません。インドのルドラではないかという研究もあるようです。ルドラは風の神であり、シヴァの前世の姿であるとも言われます。なお、十一面観音といえば歓喜天像で聖天(ガネーシャ)と抱き合っている女神がこの十一面観音です。

 ・如意輪観音
・梵名:チンターマニチャクラ  ・真言:オン バラダ ハンドメイ ウン
 種子キリーク           真言 オン・ハンドマ・シンダ・マニ・ジンバ・ラ・ソワカ

変化観音の一つ。梵名のチンタは『願望』を意味し、マニは『宝珠』を指し。チャクラは『円』ので如意宝珠法輪を意味する。これを略して如意輪。六本の手で右手は頬に当て、右膝を立て、両足裏を合わせる輪王座という姿勢をとっています。人々を苦悩から救い、その願いをかなえてくれると言う。如意宝珠は思うがままに珍宝だし、苦しみを取り除くと言われる。密教法具は煩悩を打ち砕き、法輪を持つことで役割を明らかにしています。六観音の一人です。

 このルーツもはっきりしませんが、名前からしてチャクラとの関連が想像できます。なお、この真言が有名な光明真言と似ていると思われた方もあるでしょう。光明真言は下記の通りです。 
 オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・ダラマニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン

 
聖観音
・梵名:アヴァローキテーシュヴァラ   ・真言:オン アロリキヤ ソワカ
 種子 サ
仏の慈悲の「非」をもって、現世の生活に悩む人の苦しみを救います。阿弥陀如来の化身と考えられています。頭上には阿弥陀の化仏を付けています。単独像のほかに勢至菩薩と一緒に阿弥陀如来像の脇侍となる場合もあります。


不空羂索観音
・梵名:アモーガパーシャ   ・真言:オン アボキャ ビジャシャ ウン ハッタ
 種子 モウ   二重母音「モウ」と書いていますが、梵字では長母音「モー」です。(指摘をいただきました。)

不空とは、願いが空しくないという意味で、羂索とは、戦いや狩猟に用いる環のついた投網。菩薩の網でもれなく苦悩するすべての人々を救いとります。六観音の一人です。

 この名前のひとつマヘーシュヴァラはシヴァの有名な異名のひとつです。日本では摩醯首羅天(まけいしゅらてん)として信仰されています。そもそも不空羂索観音の多くの像は額に第三眼を持っており、これはまさにシヴァそのものといえるでしょう。

 
准胝観音
・梵名:チュンディー  種子ボ   真言オン・シャレイ・シャレイ・ソンデイ・ソワカ

 観音の女性神格の代表のひとつですが、元々チュンディーというのはシヴァの妃のひとり、ドゥルガー女神の異名のひとつです。
 
 ドゥルガーというのは古代の神々と阿修羅との戦いの時に神々が共同で産み出した荒々しい女神で、三叉戟・円盤・ホラ貝・槍・雷・鈴・水瓶を持ち、ライオンに乗って進軍する強い女神です。この女神の登場によって戦況が大いに転換したのです。

 またチュンディーという言葉はチュンティー(泉)にも通じるといわれています。つまり准胝観音は水の女神という性格も強く持っており、仏教的には水の浄化の働きにより清浄をもたらす女神ともいわれます。


 ・馬頭観音
 ・梵名:ハヤグリーヴァ   ・真言:オン アミリト ドハンバ ウン ハッタ
           種子カン 梵字は、「ウン」なのですが、「カン」と読むようです。

   田淵さまから、以下の指摘を受けました。詳しくご存知のかたは、教えてください。
     「馬頭観音の種字ですが、これはアシュク如来と同じであり、humですから、
      伝統的狭軌では「ウン」になると思います。「カン」ではないと思います。
      もともと、「カン」「カンマン」も含め、現代語ではkaで発音されている音は
      弘法大師の時代にはhaであり、現在haで発音されている音はpa(奈良時代・
      古墳時代はfa)であったと考えられています。従って、もとは同系統の
      hに似た字が、「ウン」になったり「カン」になったり「カク」になったりします。
      また、現在、「キャ」と発音されているものは元来、kの帯気音khであり、
      ギリシャ語のχに相当しますが、この音は正確に発音するのが難しく、
      日本に伝わる過程で、音が変わってしまったのだと思います。ちなみに、キリストも
      もともとギリシャ語でχρισtοσですが、語頭のχはいろいろ読まれることがあり、
      キリスト、フリスト、ハリストなどと読まれます。」



馬頭観音の頭上に馬の頭があります。普通は馬頭観音と呼ばれますが、梵名をそのまま訳して、大持力明王または、馬頭明王とも呼ばれます。忿怒の形相で表されるため、この形相で様々な苦悩や災難などの諸悪を粉砕します。また、馬頭観音は家畜や荷物を運ぶ馬の守り神として路傍の石仏にも多く見られます。六観音の一人です。

 これはこのままハヤグリーヴァという名前の神様がインド神話に出てきます。馬のたてがみを持つ神で、ダーナヴァ族の王ということになっています。この観音は明王的な性格を持っていたようですが、日本の民間信仰の中ではいつの間にか農耕馬の守り神になってしまったようです。

白衣観音(びゃくえかんのん)       種子ハン
 オン・シベイテイ・シベイテイ・ハンダラ・バシニ・ソワカ
観音中、もっとも女性的な優しさを持つのが、この白衣観音です。
そこから、息災除病、救児、安産の本尊ともされます。
曼陀羅上での姿は、左手に未開蓮華、右手に揚掌などの一面二臂、もしくは三面六臂像であらわされます。

みなさんのお知恵を拝借
 ○絵画などでは拝見したことはあるのですが(祖母の持っている西国めぐりの朱印帳の中央が白衣さまでした)、鎌倉や高崎などにある大きな仏像でしか、お目にかかったことがありません。非常に美しい立ち姿なのですが、あのような巨大な像ではなく、どこかのお寺でご本尊として、白衣観音様をおかれている寺院をどなたかご存じないでしょうか?
また白衣観音を祭っておられるお寺は、比較的新しいお寺が多いように見受けますが、昔からそれほど本尊としてお祭りされてこなかったのでしょうか?                                               Carpe diemさん

前仏としてや本尊とは別に塑像があったりのようですが、本尊として祭られているところは少ないようです。京都・北野天満宮近くの東向観音寺の白衣観音堂に収められている高王白衣観音さま、子供を抱かれたお姿でおられるそうです。
中国でたくさん信仰されて、黄檗宗万福寺の白衣観音像などもあると聞きました。
ほとんどは、子授け・安産の観音様とありましたが、市川智康さん(池上本門寺学頭、日蓮宗前伝道局長)が書かれた「仏さまの履歴書」という本の中では、兵乱天変の防止が役割だとあるようです。世の中が、不安定になって戦争が多く起こるようになると、この観音様が出動されるといった意味なのでしょうか?
中国では、白衣観音さまが信仰されているとのことですが、弥勒教の影響のようです。そして弥勒教は、ミトラ教が東方から伝わって中国で道教や仏教やその他様々なものが融合されて、独自に発展していったものだと聞きました。その経緯の中で、白衣観音の信仰があったようです。                                                Carpe diemさん 

白衣観音さんは中華街・南京町では陶器の商品では結構置いてます。中国では結構白衣観音は信仰されているようです。                 武侯仁従さん

白衣観音は胎蔵曼荼羅の観音部にもいらっしゃいますよ。白は清浄菩提心の意義で、観音部の部主です。インド起源の尊だと考えられています。ただ江戸時代中は、マリア観音として隠れキリシタンの信仰もあったみたいですね。  隆蓮房さん

諸仏を生ずる観音の母ともいわれており、三十三観音の一つに数えられています。右手には私たちの願いを叶えてくれる如意宝珠を持ち、左手の水瓶には萬徳の知恵の水を蓄え、私達に注ぎ知恵を授けてくれます。心静かに合掌し、白衣観音ご真言「オン シベイテイ シベイテイ ハンダラ バシニソワカ」と 念誦すれば一切の災難は消滅し、不吉祥は吉祥になるといわれております。
宮城県仙台市に真言宗智山派 大観密寺というご本尊が白衣観音様の寺院があります。          智さん

白衣観音そのものは三十三観音の一つとして中国で成立した物の様ですね。やっぱり主流では無いということなのでしょうか?白衣観音様、まず手元の資料(学研)を紐解いてみましたが、御本尊として独尊でお祀りされているところは無さそうですね。
画像で検索かけると、墓地などに仏様の供養のためにお祀りされている物は出てくるのですが……。お姿が美しいので、独尊で祀っておられるお寺、あっても良さそうなものなんですけどね。                          是々さん 


揚柳観音(ようりゅうかんのん)       種子サ
 オン・バザラダラマ・ベイサジャ・ラジャヤ・ソワカ
薬王観音ともいわれます。
後述する三十三観音の筆頭で、衆病消除の信仰を持ちます。
像容は「右手に柳枝を持ち左手を乳上におく」らしいです。


(真言と法話)阿弥陀如来

 
  ご真言 おん あみりたていせい からうん
  種字 キリーク
                                     阿弥陀経 無量寿経 観無量寿経(浄土三部経)

十三仏の3回忌導師。三尊形式のときは観世音菩薩と勢至菩薩を従えます。密教系では左右が逆となります。
無量寿如来、不可思議光如来、尽十方無碍光仏(じんじっぽうむげこうぶつ)とも呼びます。アミダには無量光、無量寿の意味が有ります。

現世と来世をよりよいものとするように導いてくれる仏。
過去無量劫に法蔵菩薩であったときに、世自在王仏のもとで四十八願を立てて、修行をし、悟りを得て阿弥陀仏とになり、西方に極楽浄土を建設し教えを説く。この如来の放つ無量の光明によって、さまざまな苦しみが除去され、大慈悲心によってすべてが癒されてしまう。

阿弥陀如来も釈尊と同様に、もとインドの王子でしたが48の大願を立て、修行の末如来になったといわれます。
 その大願の中に「念仏を行う者は必ず極楽浄土へ行ける」と説いていて「無量寿如来」とか「無量光如来」(無量=限りない)とも呼ばれています。

宝蔵菩薩時代に五劫と言う無限に近い間修行して四十八の誓願(無量寿経)をたて如来となったとされる阿弥陀を信仰する事により救われようとの考えから成立したものである。

梵語名、アミターユス・無量光の音訳とする説が有力視されている。 大無量寿経に阿弥陀如来の出現経過が説かれており、大乗経典に一番多く登場する如来である、人間が高邁な悟りの境地に達するのは限りなく困難な事であり死に対する絶望的恐怖感から思考されたのが阿弥陀如来と言へる。

 五劫という遠い過去に法蔵菩薩が世自在王仏の下で念仏往生による・衆生救済の四十八願を立て、成就して阿弥陀如来となった。極楽浄土とはこの阿弥陀如来の建立した西方浄土のこと。

阿弥陀さまは手の形(印相)にいろいろなバリエーションがあります。結ぶ印相の種類は多く古くは施無畏印・与願印、あるいは説法印、平安時代以降は阿弥陀定印、浄土信仰が盛んになった平安後期以降には来迎印を結ぶ例が多いようです。
印相や坐像立像の違いは信仰形態の変化により変わり施無畏与願・転法輪・(説法印)・定印・来迎印がある、説法印像は天平時代以前に多く定印(上品上生)は藤原時代から鎌倉前期に多い、そして来迎院像は鎌倉時代中期以後になる。  

一般に言はれる九品印は近世我日本で作られたもので形態化すべきではないとする説がある。
ただ平安時代中・後期には九品印(特に上品上生と来迎印)の阿弥陀如来は多く製作された。

※印相について
仏像の手の形や組み方を印契あるいは印相といい、略して印と呼ぶ

釈迦の五印―釈迦の様々な身振りを表わしたもの
   ・説法印(転法輪印)…釈迦が最初の説法をしたときの身振りをとらえたもの
   ・施無畏印…人々を安心させる身振り
   ・定印(禅定印)…心の安定を表わす身振りで、釈迦が悟りを開いたときの姿をとらえたもの。
    これと同じかたちで阿弥陀如来が結ぶものを阿弥陀定印、大日如来が結ぶものを法界定印と呼ぶ
   ・降魔印(触地印)…悪魔を退ける身振り(釈迦が悟りを開いたあと悪魔が悟りの邪魔をしにやってき
    た際に、釈迦が指先を地面に触れると地神が現れて釈迦の悟りを証明しこれを見た悪魔が退散した
    という話からそのときの釈迦をとらえたもの)
   ・与願印…人々の願いを聞き入れ望むものを与えようとする身振りで、深い慈悲を表わしている

九品来迎印―仏教では人間をその能力や信仰の程度によって、上品・中品・下品の三つの位のそれぞれをさらに上生・中生・下生の三つに分けた九つの段階に区別するが、阿弥陀如来は臨終の人を迎えに来る際その人にふさわしい印を示すとされる。この九種の印の総称が九品来迎印である。両手をへその前で組むのが上品、両手を胸の前に上げるのが中品、右手が上で左手が下になっているのが下品であり、親指と人差し指をあわせて輪を作るのが上生、親指と中指で作るのが中生、親指と薬指で作るのが下生である。これらの手のひらの位置と指の形の組み合わせで九種の印を表わす。(上生印を定印、中生印を説法印、下生印を来迎印と呼ぶこともある。)

   ・密教印―密教において印は単に身振りを表わすだけでなく、教理そのものも表わすようになった。
    このため密教では印が著しく発達し、種類も増えかたちも複雑になった。
    主なものとしては金剛界大日如来の智剣印(智拳印)と、胎蔵界大日如来の法界定印がある。

   ・智剣印はは両手とも親指を拳の中ににぎり、左手の人差指を立ててその第一関節までを右手の
    拳でにぎり胸の前に右拳を重ねたもの。これは密教の密教の教主である大日如来の智慧を示し
    たもので深い思索から行動に移る一瞬をとらえたものだといい右手は仏を左手は衆生を表わす
    ともいう。法界定印のかたちは釈迦の五印の定印と同じである。

その他の印―この他にも印は無数にあり全てを紹介することはできないが、代表的なものをいくつか挙げておく。

   ・安慰印…施無畏印のように右腕を曲げて手のひらを前に開いて親指と人差指で輪を作って他の
    三本の指を立てたもの(阿弥陀如来仏の下品上生印や焼くし如来の三界印などがこれに当たる)

   ・吉祥印…親指と薬指で輪を作ったもの

   ・合掌印(金剛合掌・帰命合掌)…胸の前で両手を合わせるもので普通にてのひらを合わせただけの
    ものを金剛合掌、両手を合わせて十本の指をそれぞれ交差させたものを帰命合掌と呼ぶ

インドでは二世紀頃には阿弥陀信仰は成立しており釈迦についで古い佛の一つと言える、しかし当地では現在阿弥陀と確認できる仏像は無い。

我が国には六世紀後半から七世紀初頭頃に伝わり弥勒信仰と混合された形で信仰された、代表例として奈良時代には浄土をイメージした橘夫人念持佛等がある、平安時代には定行三昧法に必要な阿弥陀堂の中で上品上生の像、更に鎌倉時代にはいろいろな来迎絵など佛教美術的にも大きな貢献をしており国宝・重文指定の文化財は最高の数にのぼる。

今も尚、西方極楽浄土で説法を続けておられると経典に説く。「南無阿弥陀仏」と称える念仏はこの仏の名を一心に称えること。念仏すれば釈迦の教法が衰えた末法の世の中にあって、いかなる衆生も憂いや不安のない極楽に往生できるという、法然や親鸞のいわゆる念仏・他力本願の教えは、この阿弥陀如来の誓願によるもの。

 弥陀一仏に帰依する阿弥陀信仰は法然・親鸞により確立。本願寺八世の蓮如の時代には全国的なものとなり、津々浦々に阿弥陀如来を安置する浄土真宗の寺院が建立された。(※浄土宗や浄土真宗の本尊。真宗の場合は立像)
 
梅原猛氏は「阿弥陀像は、奈良時代では主として説法をしている姿で表され、平安時代では坐って沈思黙考している姿であらわされ、更に鎌倉時代には立って念佛者を迎え入れる姿であらわされる」と言われる(仏像のこころ、集英社)。
平安前期より鎌倉時代にかけて阿弥陀の造像は盛んで現在国宝等に指定されている仏像はこの時代のものが阿弥陀を中心に多くを占める、これは源信・法然・親鸞・一遍等の念仏・浄土教の流れと一致する。  


四十八願
       
【1】無三悪趣の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。 
 ・私が仏になるとき、私の国に地獄、餓鬼、畜生のものがいるようなら、私はさとりを開きません。

【2】不更悪趣(ふきょうあくしゅ)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、その国の人々や天人が命を終えた後、再び三悪道(地獄、餓鬼、畜生)にかえるようなことがあるようなら、私はさとりを開きません。 

【3】悉皆金色(しっかいこんじき)の願   
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が真金色に輝く身になることができないようなら、私はさとりを開きません。 

【4】無有好醜(むうこうしゅ)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人の姿かたちが、まちまちで、美しいものと醜いものとがあるようなら、私はさとりを開きません。 

【5】宿命通(しゅくみょうつう)の願   
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、宿命を識らずして、下、百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、宿命通(しゅくみょうつう)を得ないで、下、百千億那由他の諸劫の事(限りない過去のこと)まで知り尽くすことが出来ないようなら、私はさとりを開きません。 

【6】天眼通(てんげんつう)の願  
       たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、天眼を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、天眼通(てんげんつう)を得ないで、数限りない諸仏の国土を自由自在に見通すことが出来ないようなら、私はさとりを開きません。 

【7】天耳通(てんにつう)の願   
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、天耳を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の説くところを聞きて、ことごとく受持せざるに至らば、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、天耳通(てんにつう)を得ないで、数限りない諸仏の説法を聞き取り、すべてを記憶することもできないようなら、私はさとりを開きません。 

【8】他心通(たしんつう)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、他心を見る智を得ずして、下、百千億那由他の諸仏国中の衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、他心通(たしんつう)を得ないで、数限りない諸仏国土の人々の心を自在に見抜き知り尽くすことができないようなら、私はさとりを開きません。 

【9】神足通(じんそくつう)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、神足を得ずして、一念のあひだにおいて、下、百千億那由他の諸仏の国を超過することあたはざるに至らば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、神足通(じんそくつう)を得ないで、数限りない諸仏の国土をまたたく間にとびまわることができないようなら、私はさとりを開きません。 
 
【10】漏尽通(ろじんつう)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、もし想念を起して、身を貪計せば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、〈漏尽通(ろじんつう)を得ないで〉、いろいろと思いはからい、その身に執着するようなことがあるなら、私はさとりを開きません。 
 
【11】必至滅度(ひっしめつど)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、正定聚(しょうじょうじゅ)にはいり、必ず悟りを得ることがないようなら、私はさとりを開きません。 

【12】光明無量の願
      たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。 ・私が仏になるとき、私の光明に限りがあって、少なくとも百千億那由他の諸仏の国を照らすことができないようなら、私はさとりを開きません。 

【13】寿命無量の願
      たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、私の寿命に限りがあって、少なくとも百千億那由他劫までの長さでつきるようなら、私はさとりを開きません。 

【14】声聞無数の願  
    たとひわれ仏を得たらんに、国中の声聞、よく計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとくともに計校して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、私の国の声聞の数に限りがあり、たとえば三千大千世界の声聞・縁覚たちが、百千劫のあいだ力をあわせて計算し、その数を数え尽くせるようなら、私はさとりを開きません。   

  
【15】眷属長寿の願      
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿命よく限量なからん。その本願の修短自在ならんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、私の国の人々や天人の寿命は限りないものにさせましょう。しかしそれぞれの希望で、その長短を自由にする人は別として、他の人の寿命に限りがあるようなら、私はさとりを開きません。 

【16】離き嫌名(りきけんみょう)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、私の国の人々や天人に、不善のものがいたり、またその名さえあるようなら、私はさとりを開きません。 
【17】諸仏称揚の願
      たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、あらゆる世界の数限りない諸仏たちが、ことごとく私の名をほめたたえないようなら、私はさとりを開きません。 

【18】念仏往生の願   
     たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。  
 ・私が仏になるとき、あらゆる人たちが、私の至心をよりどころに、往生まちがいないという思いから、ただ念仏を申す身となるように育てます。それでも私の国に生まれることが出来ないようなら、私はさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の正しいみ教えを謗ったりする人だけは除きます。 

【19】修諸功徳(しゅしょくどく)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、あらゆる人たちが菩提心を起こし、もろもろの善根功徳を修め、ひとすじに私の国に生まれたいと願うなら、その人々の臨終の時、私は多くの聖者たちと、その人の前に現れましょう。それが出来ないようなら、私はさとりを開きません。 
  
【20】植諸徳本(じきしょとくほん)の願    
     たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、あらゆる人たちが私の名を聞いて、私の国におもいをよせ念仏をとなえる功を積んで、ひたすらに私の国へ生まれたいと願うなら、私はその願いを果たし遂げさせましょう。それが出来ないようなら、私はさとりを開きません。 

【21】三十二相の願  
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく三十二大人相を成満せずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、わたしの国の人々や天人が、一人残らず三十二相の仏の姿をまどかに備えられないようなら、私はさとりを開きません。 
 
【22】必至補処の願
      たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正 真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、他の国の菩薩達が、私の浄土に生まれたなら、必ず菩薩最高の位にはいるようにしてやりましょう。しかし衆生を自由に救いたいという思いから、ひろい誓いの鎧を着て、功徳を積み、諸仏の国に行って菩薩の修行をし、それらの諸仏を供養し、無数の衆生を導いて最上の道をえさせたいというなものは、そのかぎりではありません。(菩薩最高の位にはいったものは)月並みの菩薩に超えすぐれ、菩薩の行のすべてが現れて、普賢菩薩のような徳を修めることが出来るでしょう。もしそれができないなら、私はさとりをひらきません。 

【23】供養諸仏の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食のあひだにあまねく無数無量那由他の諸仏の国に至ることあたはずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、私の国の菩薩が、仏の威神力をたまわり、諸仏を供養するにあたって、極めて短い時間のうちに、無数の国々にいたりつけるようにしてやることが出来ないならば、私はさとりを開きません。 

【24】供具如意(くぐにょい)の願   
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、諸仏の前にありて、その徳本を現じ、もろもろの欲求せんところの供養の具、もし意のごとくならずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、諸仏の前で、供養の徳をあらわすにあたり、欲しいと思う供養の品を思いのままに得られないならば、私はさとりを開きません。

【25】説一切智の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、一切智を演説することあたはずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、あらゆる智慧をもって思いのままにに説法することが出来ないようなら、私はさとりを開きません。 

【26】那羅延身(ならえんしん)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、金剛那羅延の身を得ずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、那羅延のような、どんなことにも負けない堅固な身を得ることが出来ないならば、私はさとりを開きません。 

【27】所須厳浄(しょしゅごんじょう)の願
       たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、一切万物、厳浄光麗にして、形色、殊特にして窮微極妙なること、よく称量することなけん。そのも ろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。よく明了にその名数を弁ふることあらば、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が用いる一切のものが、みな清らかでうるわしく光輝き、その形は特にすぐれ、微妙であることはとても計り知れないぐらいにしましょう。人々が天眼通(てんげんつう)を得て、そのありさまやや数を知り尽くすことが出来るようであるならば、私はさとりを開きません。 

【28】見道場樹(けんどうじょうじゅ)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩乃至少功徳のもの、その道場樹の無量の光色ありて、高さ四百万里なるを知見することあたはずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩で、たとえ功徳の少ない者であっても、高さ四百万里の光り輝く菩提樹を見ることができないようなら、私はさとりを開きません。 

【29】得弁才智の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受読し諷誦持説して、弁才智慧を得ずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、経法をいただいて読誦し、これを人々に説き述べ、さわりのない弁才智慧を得られないならば、私はさとりを開きません。  

【30】智弁無窮の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、智慧弁才もし限量すべくは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、智慧や弁才に限りがあるならば、私はさとりを開きません。 
 
【31】国土清浄の願    
     たとひわれ仏を得たらんに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、国土が清らかで、光明が十方無量の世界を照らすことが、ちょうど磨き上げた鏡に姿をうつすようにしましょう。もしそれが出来ないならば、私はさとりを開きません。 

【32】宝香合成の願
      たとひわれ仏を得たらんに、地より以上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹・国中のあらゆる一切万物、みな無量の雑宝、百千種の香をもつてともに合成し、厳飾奇妙にしてもろもろの人・天に超えん。その香あまねく十方世界に薫じて、菩薩聞かんもの、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、大地より虚空にいたるまで、宮殿、楼閣、池水や川の流れ、樹木や花など、私の国のすべてのものがみな無数の宝と無量の香りからでき、その美しい荘厳は世にこえてすぐれ、ゆかしい香りは方世界に薫じわたり、これを聞くものはみな仏道にいそしむでしょう。もしこのようでないならば、私はさとりを開きません。 

【33】触光柔ナン(軟)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、十方世界のあらゆる衆生で、私の光明に照らされこれを身に触れるものは、身も心もやわらいで、人天のそれよりもはるかにこえすぐれることでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。  

【34】聞名得忍(もんみょうとくにん)の願   
     たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、十方世界のあらゆる衆生が、我が名を聞いて、涅槃を得るに間違いのない身となり、もろもろの深い智慧をえることができないならば、私はさとりを開きません。  

【35】女人成仏の願
     たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。 
 ・私が仏になるとき、あらゆる世界の女性達が、我が名を聞いて、喜び信じ、菩提心を発し、我が身を恥じらう思いになるならばいのちの終わってのちは、再びもとの身にはならないだろう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。 

【36】常修梵行(じょうしゅうぼんぎょう)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに、つねに梵行を修して仏道を成るに至らん。もししからずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、あらゆる世界の菩薩達が、我が名を聞いて、いのちが終わってから、常に自利利他の菩薩の行を修め、仏道をなし遂げて仏になることが出来るでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。 

【37】人天致敬(にんてんちきょう)の願   
     たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸天・人民、わが名字を聞きて、五体を地に投げて、稽首作礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せんに、諸天・世人、敬ひを致さずといふことなけん。もししからずは、正覚を取らじ。
 ・私が仏になるとき、あらゆる世界の人々が我が名を聞いて、五体を地になげうつ最高の作法で恭しく礼拝し、よろこび信じて菩薩の行を修すならば、天人たちはこれを敬い慕うことでしょう。もしそうでなければ、私はさとりを開きません。 

【38】衣服随念(えふくずいねん)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、衣服を得んと欲はば、念に随ひてすなはち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が衣服が欲しいと思ったら、それが直ちに現れ、仏の意にかなった尊い衣服が自然と身につけられるでしょう。それが、裁ったり縫ったり、染めたり、洗ったりしなければならないようならば、私はさとりを開きません。 
【39】受楽無染(じゅらくむぜん)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が受ける楽しみが、煩悩の全くなくなった聖者のようにならなければ、私はさとりを開きません。 

【40】見諸仏土の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、意に随ひて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲はん。時に応じて願のごとく、宝樹のなかにして、みなことごとく照見せんこと、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、意のおもむくままに十方の数限りない清らかなる浄土を見たいと思うなら、いつでも願いに応じて、磨き上げられた鏡に顔が映し出されるように、宝樹の中にそれを見ることができるでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。 

【41】諸根具足の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根闕陋して具足せずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達が、我が名を聞いて、仏のさとりを得るまで、体が完全で不自由でないようできないなら、私はさとりを開きません。 

【42】住定供仏(じゅうじょうぐぶつ)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を逮得せん。この三昧に住して、ひとたび意を 発さんあひだに、無量不可思議の諸仏世尊を供養したてまつりて定意を失せじ。もししからずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、みなことごとく煩悩のけがれと束縛とを離れた清らかな三昧の境地をえることでしょう。この三昧にはいると、思いが発れば直ちに無数の諸仏を供養することが出来、その禅定の心を少しも乱すことがないでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。 

【43】生尊貴家(しょうそんきけ)の願 
    たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに尊貴の家に生ぜん。もししからずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、いのちがおわってから尊い家に生まれられるでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。 

【44】具足徳本の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し徳本を具足せん。もししからずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、よろこびいさんで菩薩の行を励み、いろいろな功徳を身につけることが出来るでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。 

【45】住定見仏(じゅうじょうけんぶつ)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく普等三昧を逮得せん。この三昧に住して成仏に至るまで、つねに無量不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん。もししからずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、みなことごとく普等三昧の境地を得るでしょう。この三昧にはいって仏になるまで、常に一切の諸仏たちを見ることができるでしょう。もしそうすることが出来ないならば、私はさとりを開きません。 

【46】随意聞法の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、その志願に随ひて、聞かんと欲はんところの法、自然に聞くことを得ん。もししからずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国土の菩薩達は、その希望にしたがい、聞きたいと思う法を自然に聞くことが出来るでしょう。もしそうでないなら、私はさとりを開きません。 

【47】得不退転の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち不退転に至ることを得ずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達が、我が名を聞いて、直ちに不退の位にいたることができないならば、私はさとりを開きません。 

【48】得三法忍(とくさんぽうにん)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ。〉」と。    
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達が、我が名を聞いて、直ちに第一、第二、第三法忍と位にいたることが出来ず、諸仏の法をえたうえに、不退転の身になることが出来ないならば、私はさとりを開きません。 

坐禅 阿字観

瞑想法のひとつ 「阿字観」に通っています。

自宅から自転車で片道約一時間。快適な距離。
朝7時開始なので夜型の私には厳しいが、
得るものが大きいので行きたくなる。

阿字観ヨーガともいわれている。
万物の始まりが「あ」という前提が存在する。
あーーーーーーーーーーーーーー が基本。

▼私、個人的にはこんな感じがした。
この阿字を半眼で見つめながら宇宙と一体になる。
万物の源の水滴が宇宙から落ちて体の中に浸みわたる。
浄化され、宇宙エネルギーを充電しているようで気持ちいい。
マイナスが相殺されて「無」の感じ。
中性浮力で浮いている感じ。



大徳寺の阿字観の様子はYouTubeで見れます。


▼埼玉県川口市の大徳寺さんで毎週開催されている。
自由参加なので宗教と無関係な方でも参加OK。
(弘法大師(空海)と縁の深い真言宗豊山派豊山派)


(法話)密教の世界観 真言宗

真言宗は、空海の立教開宗による、
仏教の心髄の教えを説く密教(みっきょう)の宗派。

密教は弘法大師によって、平安時代の初めに中国から日本に伝えられました。
密教の根本の仏さまは、宇宙の本体で有り、絶対の真理である「大日如来(だいにちにょらい)」です。密教は仏教においての唯一の自然神崇拝の宗教と言っていいでしょう。大宇宙の生命の神である大日如来、その大日如来を中心として無限に生命が産出されます。様々な生の諸相それが曼荼羅の世界なのです。生は無限に豊かな曼荼羅となって開花します。 


密教に対して、密教以外の仏教を「顕教(けんぎょう)」 といいます。密教は秘密の教えで、顕教は顕(あら)わになつた教えです。わかりやすく表現すると、顕教は修行をつんで仏になる教え。密教はいきなり仏になって、そのまま、仏になって生きるための教えといえます。

密教にとって仏とは大宇宙です。一切を包みこんだ大宇宙が仏です。その大宇宙の仏に名を付けたのが「大日如来」 、 宇宙のすべてのものは、大日如来の普遍のいのちの現象で有り、さとりの世界から物質の世界まで、すべてのものが、この「いのち」を共有して、尽きることなく交流し、自由自在に融けあい通じあつています。

大日如来は我々に細かく語りかけてこらますが、その言葉は人間の言葉ではないのです。宇宙の真理は宇宙語でなくては表現できないのです。特殊な修行によってその言葉をマスタ−せねばなりません。一方お釈迦さまが通訳となり我々人間に宇宙の真理を理解可能になるように教えてくれるのが「顕教」です。その意味で大日如来の教えは、一般大衆には秘密であり、密教が秘密仏教といわれる所以です。

仏は宇宙仏であり、釈迦仏から出発するより、大日如来−宇宙の根源仏から出発すると言うのが密教の考えです。このような「いのち」の真実の相と大日如来の知恵の世界を表現しているのが「曼荼羅(まんだら)」です。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~maruyama/odaisisamanooshie.html より

(法話)人生の目的 親鸞聖人

自分は何のために生きているのか。

こんなに苦しみに耐えながら、なぜ働かねばならぬのか。まじめに生きている人ならばそのような疑問がおきてくるはず。

何のために働いているのかと質問すればほとんどの人は喰わんが為だと答えます。では何のために喰うのかと反問すると、食わねば死んでしまうからだと答えます。

それでは喰うてさえいればいつまでも生きていられるのかといえば、どんな人でも返答に窮してしまいます。

人間は生きるために食べ、食べるために忙しそうに働いているのですが、1日生きたということは確実に1日死に近づいたということです。これは何人も否定できない厳粛な事実です。これは万人が逃れることのできないさだめなのです。

にもかかわらずほとんどの人々は、この厳粛な死を無視して生のことばかり考えて、取らぬ狸の皮算用ばかりしています。

「この会社に何年勤めて係長になり、何年勤めて課長になり、うまくいけば部長になるかも知れない。なったとしても60歳で定年か。退職金は大体これこれだから小商売でも始めて年をとってから、また1年生になるか。あァーいやんなっちゃうなァ」とちょっぴり人生に絶望しかけます。

ここで「どうせ何十年かたったら死んでしまうのだ。生きているうちに、したい放題をやったほうが得だ」と考えて、酒やマージャン、女で、せめて桃色ぐらいの人生にしようと致します。

しかし、それはあくまでもごまかしであって人生の解決にはなりませんから、こんな人は最後まで苦しみ続けなければなりません。

この時に仏縁深き幸せな人は、「これはウカウカしてはおれない。このままでは死ぬために生きていることになるではないか。人生の目的を突き止めるまでは死んでも死に切れない」と真剣に仏法を求めるようになるのです。

人生究極の目的は仏法にしか説き明かされていないからです。釈尊の求道の動機も、この人生の目的の探求1つにありました。そして苦しい修行を6年なされて「すべての人々を必ず絶対の幸福に救いとる」という、無上希有の大誓願を建立せられている阿弥陀仏を発見されました。

事実どんな人でも、この弥陀の本願に信順すれば、必ず絶対不壊の幸福になれることを突き止め、これこそすべての人々の究極の目的であると、一生涯、弥陀の本願を説き続けてゆかれた方が、親鸞聖人であり蓮如上人でありました。

http://www.shinrankai.or.jp/qa/qa0101.htm より

(法話)絶対の幸福 親鸞聖人

仏法では幸福といわれるものを2つに分けます。1つは相対的幸福といわるべきものと、絶対の幸福といわれるものです。

●相対的幸福とは、一時的な喜びや満足
やがては必ず壊れたり、悲しみや苦しみに転化する幸福をいうのです。

例えば、好きな人と結婚できた喜びとか、願っていたマイホームが新築できた満足とか、普通一般の人々が求めている生きがいや喜びといわれているものです。

このような喜びや満足は断じて永続するものではありませんし、やがては必ず滅びる幸福です。どんなに素晴らしい人と結婚しても、相手がいつ病に倒れるやら死ぬやら分かりません。また、変心して不仲になり破鏡の憂き目にあい、骨肉相喰む争いをせねばならないかも分かりません。世間に夫を亡くして苦しんでいる人、妻を失って悲嘆している人、裏切られて激怒している人があふれているのを見ても、それは明らかなことです。又、築きあげた家屋が一夜の中に灰になり悲泣している人もあり、昨日まで一家和楽の家庭も、今日は交通事故や災害で地獄の悲惨を味わっている人もたくさんあります。

これらの幸福は、今日あって明日なき無常の幸福ですから、本質的にいっても真の幸福とはいえないのです。たとえ大過なく続いたとしても、私たちは死の運命を逃れることはできませんから、このような幸福で心から安心や満足ができるはずはないのです。死の前に立たされた時、金や名誉や地位や財産が何の喜びになり満足を与えてくれるでしょうか。

●絶対の幸福とは生きる究極の目的。
絶対というのは、無上、最高不二という意味と、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びということです。最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地をいうのです。いつでも何処でも満足いっぱい、喜びいっぱい、安心し切って明るい生活ができるようになり、人生の醍醐味を心ゆくまで味わうことができるようになるのです。

親鸞聖人は、この絶対の幸福を体得せられて「正定聚に入る」とか「不退転に住す」とか、「無碍の一道なり」とおっしゃっています。

「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず」(教行信証)は、その境地を喝破なされたものです。

また、「念仏者は無碍の一道なり。その故は天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」(歎異鈔)「有漏の穢身はかわらねど、心は浄土に遊ぶなり」a(和讃)
と、おっしゃっているのも、この絶対の幸福のあることの一大宣言であります。

しかもこの絶対の幸福は、弥陀の本願を聞信するという一筋道をたどって到達できるのだと、「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきくひとは、ながく不退にかなうなり」と断言なされていることも申し上げておきましょう。

http://www.shinrankai.or.jp/qa/qa0104.htm より


(法話)三世因果 親鸞聖人

仏教の根本教理は、実に三世因果にあります。
三世とは、過去世、現在世、未来世のことです。

過去世といいますのは、私たちが人間に生まれる以前のすべてを申します。二十五有生、曠劫流転して来た前生をいうのですが、とりつめれば去年であり、昨日であり、前の1時間であり、出た息が過去になります。

現在世というのは、人間に生まれてから死ぬまでの50年乃至100年の人生をいいますが、これも、とりつめれば今年であり、今日であり、今の1時間であり、今の一息が現在の当体となります。

未来世は、人間の寿命がつきて死んだ後、永遠の時をいいますが、これも、叩けば来年となり、明日となり、1時間先となり、入る息が未来となります。

ですから仏教の三世とは、吸う息、吐く息の中にあると教えているのです。すなわち、念々のうちに三世がおさまっているわけです。故に、只今の一念を徹底的に叩けば、曠劫流転して来た自己も明らかになるし、未来永劫の後生の一大事も知らされることになります。

それは「自身は現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなしと深信す」と叫ばれた善導大師のお言葉でも明らかな事実です。

これを『因果経』には、「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」と説かれています。
これは、過去を知りたければ現在を見よ、未来を知りたければ同じく現在を見よ、現在とは悠久の過去と永遠の未来とを包含しているものだと教えられたものです。

だからこそ、現在の救いがなくして未来の救いがある道理がない、とおっしゃるのです。「この世はどうにもなれない、死んだらお助け」などといっている浄土真宗の聞きぞこないの同行は、本当の仏教を全然知らないことがよく分かるでしょう。

只今、不可称、不可説、不可思議の大功徳に生かされて、只今が浄土に遊ぶ大満足の境地に救われなければ、未来は絶対に助かりません。未来の救いは現在決定されるものです。いや、現在をぬきにして未来はないのです。

わが親鸞聖人が、現生不退、平生業成、不体失往生を力説されたのは、実に仏教の真髄を顕正する為であったことがよく分かるではありませんか

http://www.shinrankai.or.jp/qa/qa0203.htm より


(法話)因縁 釈迦

考えてみますと、私たちは、日常因縁によって生活しているのです。因縁の因とは原因で、縁とは原因から結果を生ずるところの諸々の条件なのです。

たとえば、種を蒔いてそれから芽が出るということを考えてみますと、種は因であり、芽は果ということになります。その種には日光が必要であり、適当な温度や水がなくてはなりません。このように種から芽を出すには、各種の条件や援助が必要で、縁なしにすぐさま果を希むことは所詮無理な話です。

ところが、今の社会は、結果だけを見て、そこに至る過程を見ないことがあまりにも多過ぎます。

仏教では、人は夫々因なるものを持って生まれ、果を導き出す条件。即ち縁によって生きていることを教えています。結果ばかりを気にして生きているのは、何と無意味なことではありませんか。

受験生及びそのご家族の皆さん、希望する学校の入学試験に合格することは喜ばしいことですが、それよりも、合格を目ざして真剣に勉強している現在の姿こそ尊いことだと考えて下さい。

http://www.kanto88.net/contents05_2008_02.html より


『因縁』のこと、因果説、縁起説とも申します。
今回は修行、瞑想、実践をやっているときに必要な一側面について。
ですが因果説というのは、仏教で一番むずかしい教えだそうです。
そして同時に大変重要で重大な教えであります。

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi66.html より

(法話)自らを知れ 釈迦

 希望に満ちた、人生の門出に当たって「自らを知れ」ということについてお話をします。

 お釈迦様の弟子に槃特という愚者がいた。

 「お前には、むつかしいことはわからないだろうから・・・」といって、釈迦は次に語句を教えた。

 「三業に悪を造らず、諸々の有情を傷めず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみは免るべし」

 だが、この言葉が槃特にはどうしても覚えられない。

 ある日彼は力なく釈迦に云った。

 「世尊よ、愚かな私は、とてもあなたのお弟子にしていただく値打ちはございません」

 しかし釈迦はやさしくこれをさとして云った。

 「ちがう、槃特よ、世の中には愚者でありながら自分が愚者であることを知らない者が沢山いる。

 これがほんとうの愚者だ。

 お前は自分で愚者であることを十分知っているのだから、真の愚者ではない。

 ここに1本の箒を与えるから次の語句を覚えなさい」と云って、「塵を払い垢を除かん」と教えた。

 槃特は与えられた1本の箒で、精舎の回りを一心に掃除しながら、長い歳月、その言葉の意味を考えに考えぬいた挙句、ついに心に降りかかる煩悩の塵や垢をはらいのけて、悟りを開き、阿羅漢になることができた。

 釈迦が結衆に向かって、「槃特を見るが良い。

 悟りを開くというのは、決して多くを覚えることではない。

 箒で掃除することひとつでも、そのひとつのことに徹底すれば大悟を得られるのだ」

 と云って、いたく槃特を褒めたということであります。

http://www.kanto88.net/contents05_2007_03.html より


          

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